小雪&唐沢寿明が共演!映画「杉原千畝」の感想~ポーランドが親日な理由

杉原千畝


 

映画『杉原千畝(スギハラチウネ)』を観ました。

千畝役の唐沢寿明と妻役の小雪がはまっていてとても良かったです。

厳しいシーンが多い中、時折見せる小雪のやわらかい演技がとても印象的でした。

 

この映画は日本映画(東宝)でありながら、ポーランドで撮影されました。

主要な俳優陣もほぼ全てポーランド出身です。

(オランダ領事代表役のみベラルーシ出身ですが、 ベラルーシはポーランドの東隣国)

なぜこの映画は日本人とポーランド人の合作になったのでしょうか。

それはポーランドが「世界一の親日国」とうたわれる理由にもつながっています。

 

書籍『杉原千畝』にも感動しましたが、この映画は日本人であることを誇りにさえ思える作品です。

こちらでは、この映画が作られた背景を中心に、当時の状況なども書ければと思います。

 



スポンサーリンク

映画「杉原千畝スギハラチウネ」について

概要

『杉原千畝 スギハラチウネ』は、2015年制作の日本映画。

第二次世界大戦中、ナチスによる迫害から逃れるユダヤ人のために独断で日本通過のヴィザを発行して、6,000人あまりのユダヤ人を救った外交官・杉原千畝の生涯を描いた作品。

ポーランドで9月13日から11月上旬まで約2か月にわたりロケが行なわれた。

本作では杉原が外交官としてだけでなく、堪能な語学力を使い、赴任した各国で類まれな情報収集能力を発揮し、

貴重な情報を集めて日本に送り続けた「インテリジェンス・オフィサー(諜報外交官)」であった一面も合わせて描いている。

※引用:フリー百科事典ウィキペディア

 

主演が唐沢寿明、その妻役を小雪が演じています。

その他、小日向文世、滝藤賢一、濱田岳ら、最近テレビでよく見かける俳優陣が多く、そのためかとても感情移入がしやすかったです。

そして、日本人の俳優以外はほぼ全てがポーランド出身の俳優。

イリーナ役の女性も、千畝の片腕のペシュ、グッジェももちろんポーランド人です。

 

映画の主な舞台は、1939年に杉原千畝(当時39歳)が赴任したリトアニア・カウナスにある日本領事館。

リトアニアはポーランドの北に隣接している国になります。

 

千畝が就任した頃、ユダヤ人へのナチス・ドイツの迫害が激化し、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻。

その翌年にリトアニアがソ連と併合し、千畝の住んでいたリトアニアの領事館が閉鎖されることになりました。

 

当時、ナチス・ドイツの迫害から逃れようとしたポーランド人は国から脱出しようと、当時まだ開いていた日本領事館にビザの発給を求めて殺到。

千畝が難民を逃すために、ビザ発給を決意した時から領事館閉鎖までたった一ヶ月しかありませんでした。

その期間では全ての人にビザを発給できなかったため、領事館を閉鎖した後も、滞在ホテルや駅などで千畝はビザに代わる渡航証明書を発給し続けたのでした。



スポンサーリンク

映画が作られた背景と監督の生い立ち

この映画は戦後70年の節目の年である2015年に公開されました。

監督は、チェリン・グラック

ユダヤ人の血をひく父と、日系2世の母を持つ日本生まれのアメリカ人です。

これだけを知ってもこの映画に何かしら伝わってくるものがありますよね。

 

チェリン・グラック監督作品は日本映画では『ローレライ』(2005)や『太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男- 』(2011)が有名です。

どちらも評価は厳しかったように思いますが、戦争ものが多いですね。

グラック監督がこの作品で描きたかったのは、いわゆる「スーパーヒーロー」や「偉大な日本人」の物語ではなく、1人の人間が重要な判断を迫られたときの決断の過程だ。(中略)

だが、今では「シンドラーと千畝を比べるべきではない」と力を込める。スティーヴン・スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』(1993年)で世界的に 知られるオスカー・シンドラーは、「自分の工場にいる人を救った。身近な人を救ったシンドラーと見知らぬ人たちを救った千畝は違う」と。

※引用:6000人のユダヤ難民を救った「好ましからざる」男—映画『杉原千畝 スギハラチウネ』チェリン・グラック監督に聞く

 

確かに、映画『杉原千畝』の関連映画には『シンドラーのリスト』がまず真っ先に上がりますよね。

私も自然に比べていたところがありますが、杉原千畝は見も知らぬ、それも外国人に対して、自分や家族の命と引き換えにヴィザ発給をしていたのですから、想像を絶します。

またこの映画に関しては、この監督しか務まらなかったのではと思う逸話も見つかりました。

「父は17歳の時、年齢をいつわって“ドイツ軍をこらしめたい”と海軍にはいり、母は(日系収容所の)Rohwer Arkansasに入れられました。

父、母からいろいろと聞いた戦時中の話が僕の中の“データベース”に入っている」。

だからこそ、役者の演技に違和感を 覚えたときに、真情のこもった演技を引き出すための的確な助言が出せたのだと言う。

※引用:6000人のユダヤ難民を救った「好ましからざる」男—映画『杉原千畝 スギハラチウネ』チェリン・グラック監督に聞く

 

この映画には色んな背景があるのだなとあらためて思います。

久々に感動する映画を観せてもらいました。



スポンサーリンク

初回上映直後の様子と日本の反応

初回上映は、リトアニア・カナウスで上映されました。

そう、杉原千畝が領事館でビザを発給した土地ですよね。

撮影場所はそこではなく、映画文化の歴史が根付いたポーランドで撮影したとのこと。

2015年10月13日、杉原がビザを発給したリトアニア・カウナスでワールドプレミアが行われ、杉原の家族やカウナス副市長が出席した。

450席の劇場は満席で50人の立ち見が出た他、上映終了後には5分間のスタンディングオベーションが起きた。

12月5日に全国329スクリーンで公開され、5日・6日の2日間で観客動員11万8,453人、興行収入1億4,538万9,600円を記録し、国内映画ランキング(興行通信社調べ)で初登場第2位となった。

※引用:フリー百科事典ウィキペディア

 

DVDも発売されましたので、多くの方に杉原千畝を知ってもらいたいです。

 

この映画の名言は?

この映画の名言シーンはやっぱりこれでしょうか。

それは千畝が次の赴任地に赴くため、グッジェに最後の別れを告げるシーン。

ここで千畝はグッジェに、渡航証明書に使う道具一式を託して列車に乗り込みます。

グッジェが千畝に、

「世界は車輪です。今はヒトラーが上でも、いつか車輪が回って下になる日が来るかも」

と話しかけると、それに対して唐沢寿明演じる杉原千畝は、

「お互いに悔いのなきよう努めよう」

と返事を返します。

 

ちなみにグッジェはゲシュタポ(ナチス・ドイツの国家秘密警察)のスパイであることがこのときにわかるのですが、書籍「杉原千畝」によると、実際に杉原千畝は領事館の中で数名のスパイと一緒に仕事をしていたそうです。

驚きですね。

ところで上の「世界は車輪~」のセリフ、実際には千畝がビザ発給の際に、ある難民にかけた励ましの言葉だったそうです。

「世界は、大きな車輪のようなものですからね。対立したり、あらそったりせずに、みんなで手をつなぎあって、まわっていかなければなりません・・・。では、お元気で、幸運をいのります」

※引用:杉原幸子・杉原弘樹『杉原千畝物語』p.60.

 

後日談:東日本大震災でのこと

2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災が発生し、地震と津波による甚大の被害が世界中に報道されるや、

内外のユダヤ人社会から、第二次世界大戦時にユダヤ難民の救済に奔走した、杉原の事績を想起すべきとのアピールがなされた。

3月21日、イスラエルの有力紙『エルサレム・ポスト』は第二次世界大戦中、「在リトアニア日本公使、チウネ・スギハラが、訓令に反してビザを発給し、6,000人のユダヤ人を救った」ことに注意を喚起し、

「在日ユダヤ人共同体が協力し、すべてを失い窮状にある人々の救済を始め、在京のユダヤ人たちは募金のための口座を開いた」と報じた。

東日本大震災によって被災した人々に対する義援金を募るにあたり、米国のユダヤ人組織であるオーソドックス・ユニオンは、

会長のシムカ・カッツ博士と副会長のスティーヴン・ヴェイユ師の連名で、以下のような公式声明を発した。

窮状にある人々に手を差し伸べることは、主のいつくしみの業に倣うことである。

1940年、杉原領事夫妻は身職を賭して通過ビザを発給し、6,000人のユダヤ人の命を助けて下さった。いまこそわれわれがその恩義に報いるときである。

— 東日本大震災への義援金を募る際の米国のユダヤ人組織オーソドックス・ユニオンによる公式声明

※引用:フリー百科事典ウィキペディア



スポンサーリンク

 杉原千畝の豆知識

ヴィザ発給枚数と救った人数の相違点について

この映画ではビザの枚数が2139枚とありますが、史実も同じ枚数です。

6000人のユダヤ人を救ったとありますが、その数は家族で1枚と考えて算出されたと聞いています。

ただこの数には少し異論があるのをご存知でしょうか。

 

まずこの6000人という数は、杉原千畝の妻、杉原幸子が書いた本(「六千人の命のビザ」)によるものです。

その本では詳しく述べられていなかったそうなのですが、2139枚と6000人という比率は、家族と考えても多すぎる数だと書籍「杉浦千畝」の著者は語っています。

それではサバを読んでいるのか、ということになりますがそうではないとのこと。

 

映画にもありましたが、異例のビザ発給は公にできない側面があることから、日本やソ連相手に頭脳戦で発給された代物だそうです。

なのでリストにないものも存在すると考えてもおかしくありません。

 

例えばリストによると日曜日には発給していないことになっていますが、それは当時の状況から考えるとありえないことだそうです。

日曜に発給したとなると怪しまれてヴィザ自体が無効になるおそれがあるため、実際に発給していても載せていない可能性があるとのこと。

最悪につながる要因をひとつひとつ潰してるんですね。

 

その他、映画では大量にビザを発給するためにスタンプを使っていましたが、そのスタンプは映画のように1つではなく、4つものスタンプを使って発給していたそうです。

 

杉原千畝の名前と生年月日

杉原千畝(すぎはらちうね)、珍しい名前ですね。

その名前の語源は、生まれた土地にありました。

杉原千畝は岐阜県の今の美濃市で生まれました。

生まれたのはお寺の借間だったそうですが、眼下に千畝町の広大な畑があり、千畝という名はそこから名づけられたそうです。

ちなみに難民は千畝のことを「センポ」と呼んでいましたが、チウネではとても発音しづらいので、千畝が配慮してそう教えていたそうです。

 

また生年月日は1900年1月1日。

これ、すごいと思いませんか?

ちなみに亡くなったのは1986年7月31日。こちらも切りがよすぎですね。

杉原年表を西暦で見ると、当時の年齢が一目瞭然です。

 

幸子婦人とは再婚だった?

幸子婦人との結婚は再婚だったそうです。

千畝の初婚は、1924年。ロシア人の白人女性と結婚し、1935年に離婚。

その翌年に、友人の妹の幸子夫人と結婚したそうです。

映画に登場する白人女性のイリーナは、きっと前妻を少しイメージしているのかもしれませんね。



スポンサーリンク

まとめ

この映画を観て、杉原千畝に一層興味を持ちました。

杉原千畝が知られるきっかけになった本は、1990年に発売された杉原幸子著『六千人の命のビザ』(新版は1994年発売)だと思いますが、その本も必ず読んでみたいと思います。

いくら目の前で人が迫害されたとしても、自分や自分の家族の命と引き換えに、人を救うことは出来るのでしょうか。

私には多分出来ないと思います。

ただ杉原千畝がかなりの凄腕だったからこそ、そういう状況でもヴィザを発給し続けられたし、他国のスパイを雇って一緒に働くことが出来たのだとも思います。

書いていてますます杉原千畝に感化されそうです。

 

関連書籍

杉原千畝: 情報に賭けた外交官 (新潮文庫)
※今回私が読んだ本になります。とても資料性が高い本だと思いました。

新版 六千人の命のビザ
※購入済み。これから読むのが楽しみです

杉原千畝物語―命のビザをありがとう (フォア文庫)
※杉原千畝の妻と長男が書いた本です。こちらも気になります。

杉原千畝 (小学館文庫)
※映画の小説版です

杉原千畝―六千人の命を救った外交官 (小学館版 学習まんが人物館)
※漫画版があるんですね

 









コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA