『田中角栄 100の言葉 ~日本人に贈る人生と仕事の心得 』(別冊宝島編集部・宝島社)を読みました。
本屋で田中角栄関連本をよく見るようになって久しいですが、昨年だけでも関連本が10冊以上発売され、
今年も石原慎太郎著『天才』をはじめ、7月中には10冊以上が発売される予定と聞いています。
田中角栄についてあまり詳しくないのですが、すぐに頭に浮かぶのは、小学卒の総理大臣やロッキード事件で失職、くらいです。
予備知識があまりないことから、石原慎太郎著『天才』を先に読んでおけばよかったと思いました。
それだけこの『田中角栄 100の言葉』が強烈だったからですが、今回の名言集を読んだだけでも、角栄氏のものすごいパワーが伝わってきます。
読むだけでこれなので、実際に対峙すると想像をはるかに超えてしまうんでしょうね。
こちらではこの本についての感想や、田中角栄氏の伝説のエピソードなども書いてみたいと思います。
田中角栄氏の略歴
1918年(大正7年)5月4日、新潟県二田村(現柏崎市)で牛馬商も営む農家に生まれる。
尋常高等小学校を卒業後に15歳で上京。
兵役で旧満州(現中国東北部)へ渡るも病気で帰国。
東京で土建会社を設立後、1947年に戦後2回目の衆院選で初当選。
郵政相、蔵相、自民党幹事長などを歴任し、1972年に戦後最年少の54歳で首相に就任。
田中内閣は、中国との国交正常化を実現。
都市の過密化と地方の過疎化対策に注力し、新幹線・高速道路網の整備や産業の再配置による高成長政策を進めたが、第1次石油ショックによる物価高騰で国民の不満が爆発。
月刊「文芸春秋」特集記事を発端に、金権政治批判が高まり、1974年に内閣総辞職。
1976年のロッキード事件では5億円の受託収賄罪などで起訴される。
自民党を離党して無所属となるも、旧田中派の数の力で政治支配を続け「闇将軍」と呼ばれていた。
1、2審は有罪。上告中に慶應義塾大学病院にて75歳で病死。
最高裁は刑事訴訟法に基づいて公訴(起訴)を棄却。
裁判は決着せずに終結したが、1995年に榎本敏夫に対するロッキード事件上告審の判決理由で、最高裁判所が田中氏の5億円収受を認定する(首相の犯罪)。
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本の概要
<目次>
第1章 仕事(名言20)
第2章 人生(名言20)
第3章 生きる(名言30)
第4章 政治(名言30)
田中角栄年譜
『田中角栄 100の言葉』では、100の名言が4章に分けられて掲載されています。
この本には「まえがき」も「あとがき」もないので、田中角栄氏についての情報はあまりありません。
ただ、全ての名言には解説が入っていますので、名言の背景はわかるようになっています。
見開き2ページで1つの名言が紹介されており、右ページに名言、左ページに写真と解説文が掲載されています。
印象に残った言葉
印象に残る名言はたくさんあるのですが、各1章からひとつずつ抜き出してみたいと思います。
仕事をするということは文句を言われるということだ。ほめられるために一番良いのは仕事をしないこと。
しかしそれでは政治家はつとまらない。批判を恐れずやれ。(第1章:18ページより)
角栄氏の母が週刊誌の悪いうわさを心配してよく電話をかけてきたとのこと。
その度に、「オレの悪口が書かれているうちは田中角栄は健在である。あきらめてくれ」と言ったそうです。
学生運動を繰り広げる若者たちがいる。経験が浅くて視野が狭いがまじめに祖国の先行きを考え心配している。
若者はあれでいい。(第2章:58ページより)
1960~70年代にかけて日本には学生運動の嵐が吹き荒れていました。
角栄氏は、「女の尻を追いかけ回す連中より信頼できる」と、学生運動に一定の理解を示していたそうです。
人は馬鹿にされていろ、だ。
踏まれても、踏まれても、ついていきます下駄の雪。(第3章:132ページより)
雪深い新潟の人々にとって、「下駄の雪」は我慢の象徴。
角栄氏は酒を呑むとしばしば「下駄の雪」を口ずさんだといいます。
新聞で信用できるものが3つある。
死亡記事に株の値段、それにテレビの案内欄だ。この3つにウソはない。(第4章:182ページより)
角栄氏は「新聞の1~2面は読む必要がない。特に社説は必要ない」と若手記者をからかっていたそうです。
その心は、社説は物事をよく知らない人が自分でもわからないまま書いているので、読者は政治がわからなくなる、とのこと。
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3つのエピソード
田中角栄氏の、特に金にまつわるエピソードは枚挙にいとまがないのですが、代表的なエピソードを3つご紹介いたします。
以下は、ウィキペディアからの引用です。
田中派の一回生議員が美人局に遭い、解決のために多額の金銭が必要となってしまった。
様々なツテに頼ったがどうしても100万円(現在の価値では3倍以上)足りない。
選挙を終えたばかりで借金のあった議員は万策尽き、田中の事務所に電話をかけて借金の申し込みをした。
事情を聞いた田中から「分かった。すぐに金を用意するから取りに来るように」と言われ、急いで事務所に向かうと、田中本人は急用で外出しており、
議員は留守番の秘書から大きな書類袋を受け取り、その中身を確認すると300 万円が入っており、同封されたメモには以下のように書かれていた。
「トラブルは必ず解決しろ。以下のように行動しなさい。
1. 100万円使ってトラブルを解決すること。
2. 100万円を使って世話になった人に飯を奢る乃至、必ず御礼をすること。
3. 残りの100万円は万一のトラブルの為に取って置くように。
以上これらの金は全て返却は無用である」その議員は感涙し、後々まで田中への忠誠を守り通した。
派閥が違う上に田中とほとんど面識のない議員が資金繰りに窮し、田中の事務所に来て300万円の借金を申し込んだ。
田中は、わざわざ派閥の違う自分にまで助けを求めねばならないほど追い詰められている相手の窮状を察し、その日のうちに金を用意し、
「困ったときはお互い様だ。この金は返さなくていい。俺が困ったとき頼む」と言って、その議員に紙袋を渡した。
その議員が、後で紙袋の中を確認すると、500万円が入っていた。
実は、その議員は、田中に 遠慮して、借金を申し込む際の金額を300万円としていたものの、実際には500万円を用意しなければならない状況であった。
その議員は、田中に忠誠を 誓った。
大臣には、「大臣機密費」という自分の裁量で自在に使える機密費がある。
しかし、田中は郵政、大蔵、通産大臣時代一度も手を付けず「部下の面倒も見なけれ ばならんだろう、自由に使ってくれ」と言って、大臣機密費のすべてを事務次官に渡していた。
また、それだけではなく、特に課長クラスの人間には目をかけ、 飲み食いできる金額を別に渡していた。
まとめ
田中角栄氏に関するエピソードや、この本以外の名言をインターネットで探してみたのですが、どれも心踊るものばかりでした。
今の時代では許されないことも多いですが、好き嫌いで判断すると、今の田中角栄ブームがその答えを物語っているように思います。
舛添氏の都知事問題はリーダーとして情けないかぎりですが、だからこそ今の時代、田中角栄氏のようなリーダーが求められるのかもしれません。
『田中角栄 100の言葉』を読んで、 石原慎太郎著『天才』を読んでみたくなりました。