親日国といえばトルコを思い出す人が多いと思いますが、ポーランドと日本の関係は、調べてみると戦前からものすごく強固なんです。
日本とポーランドの関係を遡ってみると、最初の接触は日露戦争の10年くらい前になるようです。
最近、唐沢寿明主演の映画『杉原千畝』を見たのですが、この素晴らしい話は、それまで50年間築き上げてきたポーランドとの関係あってのものなんです。
今回、ポーランドと日本の友好関係について詳しく知りたいと思い、ある本を読みました。
『世界はこれほど日本が好き―No.1親日国・ポーランドが教えてくれた「美しい日本人」 』(河添恵子著・祥伝社)という2015年11月に発売された本ですが、日本とポーランドの友好ぶりについて、その始まりから現在にいたるまで詳しく解説されてます。
最近読んだ本の中で一番泣いた本になりました。
何に泣いたかというと、今は消えかかっている、昔の日本人(一般人や子どもを含めて)の素晴らしさについて。
日本の教育は自虐史観のみ強調されているところがありますが、親日国といわれている国の訴えることを知ると、日本人がいかに立派だったのかがよくわかります。
歴史は戦勝国が都合よく書き換えたり、時には無きものにしてしまうのが歴史の現実です。
だから真実の歴史を知ろうとすれば、ある特定の国の言い分だけでなく、今現在も日本に感謝している国の言い分も含めて見るようにしないとわからないと思います。
この本は、日本人の素晴らしさを知りたい人、また、ポーランドとの友好関係を最初から知りたい人にとって必読の本です。
こちらでは、本書を読んで感動したことなどを書いてみたいと思います。
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本書の内容と構成
内容紹介
なぜあの国は世界で一番日本が好きなのか。
日本への恩義や尊敬の念を強く抱き、第二次世界大戦で敵対する関係になった後も、友情に裏打ちされた信頼関係を貫き通し、戦後も日本国、日本人への恩をずっと忘れずに人生の〝宝物″としてくれた国、民族が存在します。
ポーランドです。
私自身が世界40カ国以上を取材した中で、〝親日国〟〝知日国〟の隠れ世界№1との結論に達しています。
史実を丁寧に記録し記憶していく、そして一期一会の関係を大切に未来へ繋いでいこうとする価値観などにおいて、双方は相性抜群だと確信しています。
少しシャイでアピール下手なところも日本人と似ていますが、ポーランドには、「日本人と結婚したい」どころか「日本人としか結婚したくない」と夢見る若者だっているのです!(著者の言葉)
※引用:Amazon『世界はこれほど日本が好き 』
目次
序章 台湾、ブータン、トルコ、そしてポーランド
第1章 日本との連帯
第2章 段ボール箱から始まった若者たちの交流
第3章 ポーランドとの初めて公式に接触した日本人
第4章 日露戦争で急速に近づいた日ポの距離
第5章 ポーランド再生の想いに”点火”した日本
第6章 第二次世界大戦中の信頼関係
第7章 元シベリア孤児と元ユダヤ人難民の戦後
第8章 「美しい精神が日本には本当に存在するのです」
序章では日本をとりまく親日国について、第1~2章では、ポーランドと日本の関係を東日本大震災のエピソードを交えて書かれています。
ポーランドと日本が共に歩んだ歴史は第3~6章になり、私はここで何度も涙が出てしまいました。
両国の歴史に興味がある人は、まずは第3章から読み進めても正解だと想います。
第7章が戦後、第8章が現代のポーランドの状況について書かれています。
著者について
河添恵子(かわそえけいこ)
ノンフィクション作家。1963年千葉県生まれ。名古屋市立女子短期大学卒業後、86年より北京外国語学院、87年より遼寧師範大学(大連)へ留学。
94 年に作家活動をスタート。40カ国以上を取材し、学校教育、世界が日本をどう見ているか、世界各国と中国の関係、移民問題などをテーマに精力的に情報発信 をしている。
2010年に上梓した『中国人の世界乗っ取り計画』(産経新聞出版)はネット書店Amazon“中国”“社会学概論”の2部門で半年以上、1 位を記録するベストセラーに。
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ポーランドと日本の主なエピソード
初めて公式にポーランドを訪れた日本人
初めて公式にポーランドを訪れた日本人は、陸軍の福島安正(ふくしまやすまさ)といわれています。
福島安正は5ヶ国語を駆使して軍事情報を集める情報将校でした。
ポーランドとの接触時期は日清戦争(1894年)以前になり、ロシアがシベリア鉄道を建設していた時になります。
福島の任務は、欧州の近代的軍隊とその戦略に関する情報の収集だったのですが、詳細な情報を集めるため、ベルリンからウラジオストックまでの14000キロもの道のりを馬一騎で488日かけて横断したそうです。
世界的にこの単騎馬横断遠征は注目され、道中では国無きポーランド(当時、国をロシア、プロイセン(ドイツ)、オーストリアに分割されていた)人との交流を深めていたようです。
当時ポーランド人は、国を失い、ロシアによるシベリア強制連行もされており、福島は国を失うことがどういうことなのか、身を持って学んだといいます。
日露戦争のロシア人捕虜
日露戦争に勝利したとき、多くのロシア人が捕虜になっていたのですが、特に強制的に徴兵されていたポーランド人は収容所で大喜びします。
ここで有名になるのは、四国松山に存在したポーランド人捕虜収容所。
ここでの捕虜に対する対応がとても素晴らしく、敵国ロシアからも賞賛されたとのことです。
看護師ら救護員は入浴できない重症者の身体を拭いてあげ、排泄物を処理し、夜の見回りでは冷えないよう布団をかけ、病室の清掃や下着などの洗濯まで行っていました。さらに、勤務の合間にはロシア語の自習もしていました。(131ページより)
食費も、ロシア将校60銭、下士卒30銭に対し、日本の兵卒が16銭前後だったとのこと、破格の対応だと想像できます。
これはこの戦争から初めて適応されるジュネーヴ条約に従っただけのことだと思いますが、状況を見る限り、形だけではなく心がこもっていると言わざるをえません。
このこともあって、直後のポーランドでは日本関連書物の出版ラッシュがはじまったとのことです。
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シベリアでのポーランド人孤児の救出
第一次世界大戦で、ドイツ、オーストリア、ロシアの諸帝国が崩壊し、1918年に英仏伊首脳会議にてポーランド国家形成が合意、翌年正式に調印されました。
123年ぶりにポーランドは蘇り、日本とポーランドの両国間で正式な外交関係が結ばれます。
しかしそれもつかの間、翌年1920年にソビエト☓ポーランド戦争が勃発。
ポーランド側は日本の外務省に、シベリアに残された孤児を助けてもらえないか懇願しました。
日本はシベリア出兵などで財政的に厳しい最中でしたが、要請からわずか17日後に孤児を助ける決断をします。
出兵中だった日本陸軍は、筆舌に尽くしがたいほど自然環境も治安も劣悪なシベリアの大地で、見知らぬポーランド人孤児を探し、救助するために東奔西走したのです。
そして1920年7月からの1年間(第1次救済活動)と、1922年7、8月(第2次救済活動)の活動で、計765人のポーランド人孤児を保護し日本に迎えました。(163ページより)
ただ悲劇は、孤児が栄養失調で身体が弱っていたため、病気が蔓延しがちだったことです。特に孤児の中から腸チフスが発生し、孤児たちにとても慕われていた23歳の看護師、松澤フミ氏が殉職されました。
孤児たちは涙が枯れるまで泣いたそうです。
「看護師さんは、病気の私の頭を優しく撫でて、『かわいい、かわいい』とキスをしてくれました。それまで、このように人に優しくされたことがありませんでした」(168ページより)
上記は当時の孤児が、重い皮膚病で髪の毛を剃って治療され、頭を包帯でぐるぐる巻きにされた時に、看護師さんから受けた愛情の話です。
いよいよお別れのとき、孤児たちは泣いて乗船を嫌がり、別れ際には甲板の上で「君が代」を合唱したといいます。
下記は、「ポーランド国民の感激、我らは日本の恩を忘れない」と題した礼状で、ポーランド救済委員会のヤクブケヴィチ副会長の言葉です。
「憐れむべき不運なる児童に対する、日本人の振る舞いは、言葉や手紙だけでは表現し尽くせない……母親が我が子を愛するがごとく擁護愛撫し……シベリアにおいて受けた耐えがたき苦痛を一刻も早く忘れるように色々と務めてくれた。
我らの児童は同情の空気と優しき愛護の元、おいしい食べ物を与えられ、ほとんど生まれ変わった様な気持ちと身なりになったことは誰もが認める所で……
我々ポーランド人は、肝に銘じてその恩を忘れることはない……ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、我々はいつまでも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。
日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも広く知れ渡っていることを告げたい……我々のこの最も大いなる喜悦を、心の言葉ではなく行為でもっていずれの日か日本に報いたい」(171ページより)
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杉原千畝がカナウスの領事館に赴任した理由
カナウスには日本人がいないのになぜ日本は領事館を建てたのでしょうか。
それは、ドイツ軍がソ連に侵攻するかどうか確証をつかむ証拠が欲しかったからだそうです。
日露戦争を契機に、ポーランドと日本は近づいていったのですが、シベリアの孤児救出以降、関係をより強固なものにしていました。
日本陸軍の課題はソ連の暗号解読でしたが、ポーランド軍は、日本陸軍に暗号解読の指導も行っていたそうです。
杉原千畝のビザの発給は、はじめはポーランド軍からの依頼。
将校を米国に脱出させ、軍の再建を図りたかったからなのだそうです。
その後に、ユダヤ人が殺到したのは映画や書籍の通り。
この時の杉原千畝の対応は、それまでのポーランドとの友好関係があったからなのだと、本書を読んで初めて知りました。
本書では、まだまだこのような美談が掲載されてますので、ぜひ一読をおすすめいたします。
まとめ
なぜポーランドは日本をここまで理解し、愛することが出来るのでしょうか。
そこには利害関係を超えたものがあるようにも思います。
著者の見解が書いてある一文から引用してみます。
ポーランド人はそもそも優秀な民族であり、識字率も高く、最低2、3ヶ国語の文化的背景を有する民族としての”進化”を遂げ、さらに高等教育を受けたり研究を続ける場として、また愛国者の政治活動の拠点としてフランスや英国とも近かったことで、複数言語に裏付けされた情報と、ロシアやプロイセンなど周辺諸国に虐げられ辛酸を舐めてきたからこそ芽生えた複雑な情緒で、日本を理解する能力が際立っていたのではないかと推測します。(146ページより)
本書では、多くの素晴らしい日本人の行動が描かれていますし、参考文献も多く紹介されています。
読んでいるだけで元気が出ますので、手元に一冊あってよい本だと思いました。